子どもたちが両手いっぱいに野菜を抱えている姿を描いた作品『子供達の賛歌』は、2014年フランス、パリのベルシー美術館で開催された「ミレー生誕200周年芸術祭」アートラベル展で仏日文化芸術嬋媛金賞を受賞した作品。

 色鮮やかな切り絵を操る井上瑞穂さん(東金市)は、気鋭の切絵作家であると同時に、認知症家族の交流会「穂垂るの会」の会長でもある。

井上さんと切り絵との出会いは2008年のこと。それまでやっていた営業の仕事を辞めて、義理の母の介護を始めたことがきっかけだった。福祉について勉強しようと入学した千葉県生涯大学校福祉科の課外活動のひとつにたまたま切り絵があった。

認知症の義母の介護をしていると簡単には家を離れることができない。そのため、自宅に籠もっていてもやれる切り絵に夢中になった。時間を忘れて創作活動にのめり込むうちに、いつしかプロになるところまで挑戦してみようという気持ちが芽生えてきた。

切り絵を始めて3年経ったとき、東日本大震災が起こった。その頃、井上さんはそれまで植物中心だった作品に人物を入れてストーリーを持たせる作風を思いつく。風評被害に苦しむ福島の農業の姿を憂いて、作品でエールを送りたい。そう願って挑んだ作品が『子供達の賛歌』だった。

2015年現在、全国におよそ500万人程度の認知症患者数は、あと10年もすると700万人を越すという。施設だけでは追いつかなくなるために、在宅で介護をする家族を地域や専門家が精神的・経済的にサポートする「認知症カフェ」をすべての自治体に設置しようと国をあげて取り組んでいる。認知症の家族を自宅で介護している井上さんは、まさにその渦中にいる。

介護は家族だけで抱えてしまうと介護者がつぶれてしまう。91歳になった義母の介護をしながら「東金認知症カフェを考える会」の会長を務め、JR東金駅西口商店街にあった千葉銀行跡に認知症カフェ「街カフェさくら」をオープンさせる立役者の一人として活躍した。

そんな中でも井上さんの創作意欲は止まらない。4月、匝瑳市の松山庭園美術館『猫ねこ展覧会』月刊ギャラリー賞を受賞、9月には千葉県立美術館『千葉県勤労者美術展』奨励賞を受賞と着々と実績を上げている。

 

寝たきりの義母と過ごしながら作る切り絵の作業は完成までに2~3ヶ月はかかる。それでも井上さんは「切り絵が楽しくてしょうがない」のだという。

 


外房に川柳の花を咲かせた男

「安延春彦」という珍しい名前をどこかで見た・・・・という人が全国少なから居ることだろう。2007年秋から時事川柳等で新聞紙上などに頻繁に現れるようになり、新鮮で格調高い作品を精力的に詠んでいる。川柳というものは面白いが必ずしも格調が高くとはならず、俳句や短歌と比較しても知的芸術的文芸とは言い難い作品が多かった。そんな中で、氏の作品を観賞すると目から鱗が落ちる思いになる。

ある年の秋に八鶴湖で中秋の名月を楽しむ「キャンドルナイト」というイベントを開催したときのこと、湖畔を飾るペットボトルに短歌や俳句を書いた和紙を貼ろうということになり、氏に川柳作品の提供を依頼し快諾を頂いた。この新しい試みは予想を超えた好評を博し、それがきっかけとなって街波通信社の発行物などの川柳欄などでも選者を務めていただくことになり、得難い川柳作家の友として今日に至っている。

 安延氏は日々2500の作品応募があり、入選句7句のみと言う難関の「朝日川柳」全国版で過去8年間において入選数全国一位を5回獲得している。そのほかにも新聞・雑誌、タウン紙などで特・入選数数知れずの実績を保持しているまさにチャンピオンなのだ。「朝日川柳」300回、「千葉笑い」100回、タウン紙等に至っては1度も落選なしで連続入選100回を数えるものもある。

氏は、大網白里、東金市等に於いて主宰講師として川柳会の創始者であると同時に多くの川柳愛好家と入選者を世に送り出してきた。山武市の川柳会においても選者として招かれ、品格ある川柳の普及のために精力的に活動している。

 

このほど東金市・大網白里市・山武市の3市の教育委員会の後援により、安延氏が中心となって各川柳の会の強者と共に、「新春外房川柳大会」を開催することになった。詳細は直接、安延氏宛に照会し参加のお申し込みを。初めての方の参加は特に歓迎とのことだ。(文責:宮原政志)


松尾城造営を夢見た藩主。

「松尾藩公庁跡」石碑

太田資美(すけよし)は、太田道灌の直系の子孫にあたる。遠江国掛川藩主であったが、大政奉還後の1868年(明治元年)徳川家駿河国遠江国三河国に入ると、資美は上総国武射・山辺郡内に移封となり、武射郡柴山村の観音教寺に仮藩庁を設置し「柴山藩」を立藩。

1869年(明治2年)版籍奉還をうけて藩知事に任命されると、それまで寺に間借りをしていた仮藩庁の地であった柴山から、新たに新藩庁の地として武射郡大堤、田越、猿尾、八田などの山林原野を開拓して「松尾城」の築城を開始した。

「松尾」とは資美の旧領であった遠江国掛川城の別称であり、これにちなんで命名したものである。(いっぽう、同年に安房・上総・下総・常陸4国内の旧幕府旗本領を管轄する本格的な行政組織として現在の大網白里市、本国寺には「宮谷県庁」が発足している。)

1871年(明治4年)1月、およそ2年の歳月をかけて知事邸や藩庁が完成し、資美は正式に松尾へ移って「松尾藩」と改称。

しかし、その半年後の廃藩置県である。

各地にあった藩は廃止され、宮谷県はじめとする幕府領の県に加えて、300にも上る県が成立した。そして城すら未完成のまま松尾藩は廃藩となって松尾県になり、しばらく松尾城に県庁を置くが、それもその数ヶ月後に政府が行った府県の統合により木更津県に合併されるのであった。

明治に入ってから発足し、わずか4年で幕を閉じた「松尾藩」の公庁跡の碑が自動車教習所のコース内にひっそりと建てられていた。

 ※2015年、松尾藩資料館がオープンしました。