1912年から 復活した 「メーヤー館」

 ウィリアム・M・ヴォーリズが日本に来日したのは1905年。滋賀県の高校に勤めたのち建築設計事務所を開設、教会建築を中心に数多くの設計を手掛けたという。ヴォーリズはその後メンソレータムの日本販売権を取得して実業家となった。1941年に日本国籍を取得し、戦後は近衛文麿の要請で会談した連合国司令官ダグラス・マッカーサーに対して天皇の立場を説いたといわれている。
 そのヴォーリズの作品リストの中に「1912年 ドイツ人宣教師H・マイヤー邸 東京都 詳しい所在地は不明」とされる作品があった。「ドイツ人宣教師H・マイヤー」とは、かつて東京聖心女子学院の院長を務めたH・マイヤー宣教師(イエズスの聖心会修道女)の事だろうと思われていた。ただ、肝心な建物が東京のどこに建っていたのかまったく見当がつかず、どうやら戦火で焼失してしまったか、既に解体されてしまっているのではないかとされていた。
 どこに建てたか分からないこの「マイヤー邸」だが、かろうじて写真が残されていた。2006年、この「マイヤー邸」の写真が、新宿区下落合にあった日本聖書神学校内にあった宣教師館「メーヤー館」にそっくりだと話題になった。その昔、落合福音教会(当時)に住んでいたのは、プロテスタント系でアメリカ人牧師のP・S・メーヤー氏。ドイツ語発音の「マイヤー」は英語では「メイヤー」と発音されることから、同じ姓を持つ人物を何らかの理由で取り違えていて、それが事を複雑にしてしまい今日まで誰も気づかなかったのである。
 宣教師ポール・S・メーヤー氏が夫妻で来日したのが1909年のこと。その後1943年には戦争激化に伴ってアメリカへ強制送還されたが戦後すぐに再来日、マッカーサー司令部の委嘱を受けて日本の復興に力を尽くした。1946年、焼け残った下落合の福音教会・宣教師館に日本聖書神学校を開校した。1957年、メーヤー氏は47年間におよぶ日本伝道を終えて引退し帰国した。
 それから約50年経って、「メーヤー館」は傷みも激しく解体の憂き目にあっていた。そして、事態が一変して近代日本の建築界に大きな功績を残したヴォーリズ作品であったと判明したとき、「メーヤー館」は既に千葉へ移築されることが決まっていた。

 新しく家主となったのは、30年以上東金教会で牧師をしている中村征一郎氏。この聖書神学校の卒業生でもある中村氏は下落合の「メーヤー館」が解体されると知り、なんとかこれを保存することはできないものかと奔走。いくつかの候補もあったが、いっそ自分で引き取ろうと決断をした。しかし、個人で解体・移築をするのは困難を極めた。暖炉の煙突は移築が難しくやむを得ず処分することになった。少しでも費用を削減しようと、自分たちでペンキを塗ろうとも考えた。可能な限り新建材を使わず、原形を再現するのに苦労した。南京下見板張り、屋根上のドーマと煉瓦の煙突が印象的な木造2階建ての洋館。建物の中は木(もく)の床と家具類のこげ茶と漆喰の色がトーンで統一されていて、落ち着いた雰囲気。解体作業が始まったのが2006年、そして6年の歳月をかけて2012年ついに新生「メーヤー館」が竣工した。
 「メーヤー館」の新しい安息の地は、大網白里市。
 ヴォーリズの建築は関西を中心に日本じゅうに分布し、国や県、自治体から文化財として登録されて手厚く保存されているものも少なくない。新しく大網にやって来た築100年の住宅は、移築計画の途中で思いがけない歴史的発見によって、それこそ貴重な文化財であるというお墨付きを得たようなものだ。ゆかりのある多くの人々の記憶とともに、広く文化的な価値を知っていただきたいとの中村氏の希望叶って、現在はレストランとして営業している。